倉敷市のストーリー

一輪の綿花から始まる倉敷物語~和と洋が織りなす繊維のまち~

始まりは、一輪の綿花

 

 岡山県の南部一帯は、かつては「吉備の穴海」と呼ばれ、大小の島々が点在する一面の海でした。その広大な浅海は、高梁川により上流から土砂が運ばれたことで徐々に浅くなり、近世以降の干拓によって陸地に姿を変えていきました。しかし、干拓されたばかりの土地は塩分が多く、米作りには向きません。そこで干拓された当初は塩分に強い綿やイグサが栽培され、現在につながる本市の繊維産業の礎が築かれました。始まりは、干拓地に植えられた一輪の綿花だったのです。

 現在は、船穂地域の一の口水門や、近代の高梁川改修事業によって建設された国内最大級の現役樋門である、高梁川東西用水取配水施設などにより、干拓地へ豊富な水が供給されています。

綿花生産が育んだ富


 倉敷は寛永19年(1642年)に幕府直轄地、いわゆる「天領」となり、周辺の直轄領を支配する政治の中心地であると同時に、備中南部の物資集散の中継地として発展しました。特に江戸時代中期以降、干拓地で綿やイグサなどの換金作物が盛んに生産されるようになり、運河として利用された倉敷川の周辺は、綿などを扱う問屋や仲買人でにぎわいました。現在も倉敷川沿いには、川港の繁栄を物語る当時の荷揚げ場や路地の石畳、常夜灯などが残り、綿花産業の富を象徴する白壁の商家の建物が軒を連ねています。

 北前船の寄港地であった玉島や下津井の港町では、綿作の肥料となる干鰯(ほしか)やニシン粕(かす)が買われ、くり綿などの綿製品が出荷されていました。

 児島地域では、真田紐(ひも)や小倉織(こくらおり)などの繊維製品が生産され、由加門前町で土産物としてもてはやされるなど、繊維産業は地域発展の基盤となりました。港町下津井からは綿製品や塩田で生産された塩が出荷されており、旧野﨑家住宅や、むかし下津井回船問屋、下津井節などが当時の児島地域の繁栄を物語っています。

 備中綿の集荷の中心として栄えた玉島地域では、最盛期には43軒もの問屋があり、200棟を超える土蔵群が軒を連ねていました。売り買いされる商品の8割が綿関係で占められ、「西の浪速(なにわ)」とまで呼ばれた玉島の繁栄は、現在も残る古い町並みや、旧柚木家住宅などに見ることができます。
 「綿花」こそ、この地域に富をもたらした源だったのです。

伝統の技が生んだ繊維産業


 明治時代になると、政府によって民間紡績業の育成が奨励され、国内最初の民間紡績所である下村紡績(児島)、玉島紡績(玉島)が明治14年(1881年)に開業、明治22年(1889年)には英国式の最新の機械と工場施設を備えた倉敷紡績所(現クラボウ)が倉敷代官所跡に創設されるなど、繊維産業の隆盛により地域が大きく発展しました。

 綿と並んでイグサも庄村・茶屋町地域を中心に江戸時代から盛んに栽培されていました。明治時代に入ると、茶屋町の磯崎眠亀氏が明治11年(1878年)に精緻な文様を織り込んだ高級花莚(かえん)である錦莞莚(きんかんえん)を発明。欧米をはじめとする海外への重要輸出品目にまで成長し、茶屋町は全国一の花莚産地となりました。その繁栄ぶりは「備中茶屋町今神戸」といわれるほどだったと伝えられています。

 また、伝統産業として育まれた紡績、撚糸(ねんし)、織り、染色、縫製などの技術は、足袋から始まり、生活様式の変化により学生服・作業着などの多彩な衣料品製造へと展開します。大正時代以降、服装の洋風化によって学生服が急速に市場に浸透し、昭和30年(1955年)には全国の学生服の7割を児島産が占めるまでになりました。そうした縫製技術を生かし、昭和40年(1965年)には国内初のジーンズを生産。児島は「国産ジーンズ発祥の地」といわれるようになり、今や加工も含めたその生産技術は世界のジーンズ産業に大きな影響を与えています。

伝統を守りながら発展を続けるまちへ


 明治時代以降、文明開化により紡績産業のまちに生まれ変わった倉敷では、倉敷紡績所が国内有数の紡績会社へと成長し、社長を務めた大原孫三郎氏は紡績業で得た富をもとに、文化事業・社会事業・福祉事業などに取り組みました。この中で、民藝運動への支援や農業研究所の設立など幅広い事業が展開され、現代につながる文化的な基礎が築かれるとともに、倉敷紡績所、旧中国銀行倉敷本町出張所、大原美術館をはじめとする多くの洋風建築が建てられました。これらはその時代、時代で、デザインと質の良さを追及して建てられており、江戸時代の商家群の中にあって、当時の紡績業の隆盛を伝えるシンボルとして風景のアクセントになり、まちの魅力を一層高めています。

 戦後には、孫三郎氏の長男で倉敷絹織(現クラレ)の社長であった總一郎氏の後押しもあり、昭和23年(1948年)に倉敷における町家再生の先駆けとなる倉敷民藝館が、昭和25年(1950年)には倉敷考古館が設立されました。また、昭和49年(1974年)には倉敷紡績の工場を再生整備し、倉敷アイビースクエアが開業。現在でも町家や土蔵を改装したカフェやレストランが開店するなど、古い建物を時代に合わせて活用する試みが続けられています。

和と洋が織りなす繊維と町並みの倉敷物語


 現在、倉敷川には観光客を乗せた舟が行き交い、しなやかに揺れる柳の奥に見え隠れする町並みは、四季を通じてにぎわっています。

 400年前までは、海とそこに浮かぶ島々であった倉敷。ここを干拓して栽培された一輪の綿花から始まる繊維産業は、倉敷を世界に誇る高品質な繊維製品を生み出す「日本一の繊維のまち」へと成長させるとともに、その発展の軌跡の中で形作られた伝統的な商家群と、近代化を象徴する明治時代以降の洋風建築が調和する町並みを創り出す礎となりました。

 美しい町並みを散策し繊維製品に触れると、和と洋が織りなす倉敷市の歴史文化とその魅力を感じることができます。

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