交流の概要
1974年から毎年夏に青少年の相互派遣を行い、交流を深めています。また、1977年から6年間、市内中学校英語教師を夏期休暇中、英語研修のため派遣しました。1981年にはアメリカ大リーグ・カンザスシティ・ロイヤルズが市営球場で試合を開催。1987年からは同市より英語指導助手の採用を行いました。その他、文化団体、教育視察団、親善訪問団の相互訪問や、2006年2月には倉敷天城高校とカンザスシティ市のバーストー高校が姉妹校提携を行うなど、人を中心とした様々な交流が行われています。
●1974年11月、カンザスシティ市チャールズ・ウィラー市長夫妻とJ. バーク日本国名誉総領事が来倉。市内では、羽島焼の絵付けを行うなど、日本文化も体験されました
●1992年7月、姉妹都市提携20周年を記念して記念式典をはじめ、アメリカンフェア(カンザスシティパネル展、物産販売)や市内中学校での交流などを行いました
●2002年10月12日、姉妹都市提携30周年を記念し、倉敷カンザスシティ市民交流協会が中心となり、倉敷市芸文館において 「カンザスシティ・ブルース&ジャズフェスティバル イン くらしき」 を開催。カンザスシティジャズの代名詞ともいえるカウント・ベイシー・オーケストラ(※)の黄金期を支えたメンバー、ベニー・パウエルをはじめ、レスター・"ダック"・ワーナー、T.K.ブルーの3氏が来倉され、満員の観客は本場のカンザスシティジャズを満喫しました。
(写真:上 [ベニー・パウエル(左)とレスター・"ダック"・ワーナー(右)]、中 [レスター・"ダック"・ワーナー(左)とT.K.ブルー(右)]、下 [当日の演奏の模様])
※ 「カウント・ベイシー・オーケストラ」とカンザスシティについて
カンザスシティのミュージシャンの中でも、カウント・ベイシーの知名度は際立つものがあります。ベイシー自身はアメリカ合衆国ニュージャージー州レッドバンクの生まれですが、ニューヨークから楽旅の途中、シカゴを経由してカンザスシティにたどり着いたあたりでバンド運営が立ち行かなくなり、解散してしまったところからKCの独特のスタイルを学ぶことになります。KCで頭角を表し活躍しているところを名プロデューサーのジョン・ハモンドの耳にとまり(彼の自家用車の短波放送でたまたまKCのリノクラブでのベイシー・バンドの実況を聴いた)、NYに呼び寄せられました。1930年代のことです。この年代がベイシー第1期黄金時代と呼ばれています。1950年代、60年台がベイシー第2期黄金時代と呼ばれ、ベイシー・オーケストラから数々のスター・プレイヤーを輩出しました。その中の一人が、この姉妹都市提携30周年記念 「カンザスシティ・ブルース&ジャズフェスティバル イン くらしき」 で倉敷を訪れたベニー・パウエルです。エイプリル・イン・パリスでのトロンボーン・ソロなどが有名です。
解説 : 倉敷カンザスシティ市民交流協会 藤原憲一氏
●提携30周年(2002年)には、提携調印式典も執り行われたルースパーク内に記念茶室の建設が計画され、2006年7月に落成し、同年7月10日に茶室完成記念式典が開催されました
●カンザスシティ市長を表敬訪問した2006年青少年生活体験団
●2016年カンザスシティ市学生親善使節とホストファミリーのみなさん