これまでの倉敷
倉敷周辺に人々が住みはじめた痕跡が認められるのは,今から約二万年前の旧石器時代までさかのぼり、児島の鷲羽山遺跡などでは当時の人々が使っていた石器が数多くみつかっている。この時期は氷河期の末期にあたり,世界規模の寒冷化の影響で海水面が低くなり,瀬戸内一帯は広大な草原であったといわれている。
その後の温暖化により,約六千年前に海水面が最も上昇した時期には,現在の平野部の奥深くまで海水が入り込み、市域の北半を中心とする付近には瀬戸内海とつながる細長い内海が東西に広がっており,その南を児島がさえぎっていた。内海は豊かな魚貝類の繁殖する海域となり,人々が住みやすい環境であったようで,内海の沿岸は西日本有数の縄文貝塚遺跡の密集地となった。
弥生時代から古墳時代にかけては,肥沃な平野部で稲作が盛んになるとともに,瀬戸内海沿いの児島では製塩が盛んとなり,山間地での鉄生産ともあいまって,吉備の豪族は大和に匹敵する勢力をもっていたといわれている。市内にも当時を物語る大規模な集落跡や古墳などの遺跡が数多く残されている。また、奈良時代に中央政界の中枢で活躍した吉備真備は,吉備の豪族の中でも有力な下道氏の出身である。
太古からたゆみなく流れ続けてきた高梁川の沖積作用により内海は浅くはなっていたが,源氏と平氏が島々を拠点として水島・藤戸合戦(1183~1184)を繰り広げたように,児島の北は天正年間(1573~1592)までは内海で,通船も可能であったといわれる。
天正10年(1582)の高松城落城の後,備中南部に進出した宇喜多秀家は,宇喜多堤を築き,児島湾の海水の浸入を防いだ。また,東高梁川沿いに堤が築かれ,それによりこの地方の新田開発が始まり,元和(1615~1624)から寛文(1661~1673)にかけて倉敷・玉島周辺の島々は陸続きになっていった。
松山藩池田氏の改易により,備中国の倉敷村などは寛永19年(1642)から幕府直轄領(天領)となった。備中国南部は綿・菜種などの商品作物栽培が盛んになり,延享3年(1746)倉敷村に幕府支配の拠点となる代官陣屋が置かれた。陣屋の新築により倉敷の町は活気を見せ,多くの大地主や豪商の屋敷が軒を連ねるようになった。備中国の玉島湊は,繰綿の出荷を中心に繁栄し,瀬戸内諸国はもとより,九州や北陸の北前船などと取引を行った。一方岡山藩領の備前国では文政10年(1827)ごろから野﨑武左衛門が広大な塩田を開き「塩田王」と呼ばれた。児島では江戸時代後期から小倉・真田・雲斎が織られ,現在の児島地区繊維産業の先駆となった。
近代産業の先駆けとして明治14年(1881)に玉島紡績所が誕生,15年には下村紡績,続いて22年には大原孝四郎らによって大規模な倉敷紡績所が開業した。その後,大原孫三郎は倉敷紡績社長として職場を改革するとともに,地域の文化・福祉の向上に大きな足跡を残した。明治24年には山陽鉄道が開通,大正年間には14カ年の歳月を要した高梁川の大改修が完成,また大正14年(1925)には伯備線が開通し,倉敷発展の基盤となった。
太平洋戦争勃発の昭和16年(1941),海軍の要請で三菱重工が高梁川廃川地で航空機製作所の建設に着手,そのころからこのあたりを水島と呼ぶようになった。戦後昭和21年に着工された農林省干拓事業が,現在の水島臨海工業地帯の形成の基盤となっている。昭和30年代からの工場誘致で,水島臨海地帯は重化学工業地帯として脚光を浴び,倉敷・児島・玉島の旧3市は地域発展のため昭和42年2月1日大合併,ここに現在の倉敷市が新たに誕生。昭和46年・47年と相次いで庄村・茶屋町を合併,平成17年(2005)8月には船穂町・真備町を合併し名実ともに東瀬戸圏の拠点都市として発展を続けている。