嘉永3年の水害

嘉永3年の水害

嘉永3年の水害


嘉永3年(1850)5月27日~29日,6月1日と雨が降り続き,まず6月1日(現在の新暦では7月9日)に小田川流域で堤防が決壊して有井・下二万・矢田・八田・川辺村(倉敷市真備町)が浸水し,また柿木・軽部村(総社市清音)の高梁川左岸堤防が南北で決壊して軽部村は一気に浸水しました。さらに東高梁川が満水になり,安江村と四十瀬村の左岸堤が6月3日夜に決壊しました。このため川の東側の約60カ村の土地へ濁流が流れ込み,一面湖水を湛えたようになりました。人々は急いで山林や高場の堂宮などへ集まり,炊出しによる食糧で凌ぎました。湛え水が引いたので村へ帰ると,家屋・納屋・家財・食糧などが流出しており,田畑や用水樋・道・橋なども破損していたため,人々は途方にくれました。しかしそこから人々と領主が力を合わせ復興への懸命の努力が始まり,7月中には東高梁川の堤の応急工事が完了しました。その後も各地で復興への取り組みが行われました。大水害であったため,経験を後世に伝えるため災害記録がいくつも作られ,水害の状況を表現する絵図も多く作られました。【参考文献:『倉敷市史 第五冊』名著出版,1973年。『倉敷市史 第十冊』名著出版,1974年。森田平三郎『倉敷雑記 1』丸善株式会社岡山支店出版サービスセンター,1981年。『日本農業全集67 災害と復興2』農山漁村文化協会,1998年。『新修倉敷市史 第四巻 近世(下)』倉敷市,2003年。倉地克直『江戸の災害史』中央公論新社,2016年。「高梁川嘉永洪水絵図を読む」(上)(下)『こうほう早島』早島町,2019年6・7月号。倉地克直「嘉永三年東高梁川洪水と岡山藩領児島郡村々」『倉敷の歴史』第31号,2021年,倉地克直「嘉永四年の東高梁川堤普請と地域社会の動向」『岡山県立記録資料館紀要』第16号,2021年】。
資料1 「〔嘉永三年水難絵図〕」 (倉敷市所蔵亀山家文書58) この絵図は,大洪水の様子を描いたもので,亀山村(倉敷市亀山)の亀山家に伝来したものです。水没した区域や船で避難する人々・動物などが詳細に描かれています。また,山・川・道・倉敷代官陣屋・帯江戸川陣屋・寺社・家屋なども詳しく描かれ,地名も書き込まれており,当時の様子を知るうえで貴重な資料です。なお,大洪水の様子を描いた絵図はほかにも多く存在します。
資料2 「嘉永三年戌六月大水記録」 (倉敷市所蔵難波家文書22-1) 大洪水の発生から,人々が「蟻の群れたる」ように最寄りの山へ避難する様子,洪水による被害,裕福な家で炊出しをした飯を,小船に乗って家々や山で避難している者へ配る様子,窪屋郡に加えて都宇郡や浅口郡,岡山藩領からも人々を動員した復旧工事,翌年村々へ幕府から褒美の銭が渡されたことなど一連の出来事が詳細に記述されています。
資料3 「嘉永三年庚戌之記 敬簡斎」 (大橋紀寛家文書別1-19-G-2)

 

倉敷村の豪農商・大橋家の五代当主である大橋正直(号:竹泉・敬簡斎)の日記です。本町・東町だけ人家が難なく,あとは皆山へ逃げ出したこと,新川・船倉は鴨居より下2尺程まで水が乗ったことなど,現在の美観地区周辺の浸水の様子が詳しく記録されています。
資料4 「嘉永三年戌正月朔日ゟ同十二月晦日迄 大庄屋役日記」 (倉敷市所蔵太田家文書5-A-9) 岡田藩領大庄屋太田卯平太の日記です。この記録により6月1日の晩に有井村の堤防が決壊し,有井・下二万・矢田・八田・川辺村が浸水したこと,また同日柿木村の高梁川左岸堤防も決壊したこと,翌朝卯平太は船で岡田から川辺へ向かったこと,など現在の真備町域の生々しい水害の状況が浮かび上がってきます。【参考文献:畑和良「真備町域における江戸時代~明治初年の水害治水史」『倉敷の歴史』第30号,2020年】
資料5 「〔高梁川嘉永洪水絵図〕」 (早島町教育委員会所蔵)) 資料1と同じく大洪水の様子を描いた絵図で,高沼村(倉敷市帯高)の片山家に伝来したものです。作者は宮崎村(早島町早島)の氏宮御崎宮(現,鶴崎神社)の宮司太田宗喬(梅園)です。前代未聞の大災害なので子孫に伝えようと被災地を見分のうえ作図したところ,片山延寿の求めがあったので再度描いたものと記されています。絵図中には随所に浸水の深さや被害の状況,救助の様子,作者の思いなどの書き込みがあります。【参考文献:『早島の歴史3 史料編』早島町,1999年。「高梁川嘉永洪水絵図を読む」(上)(下)『こうほう早島』早島町,2019年6月・7月号。倉地克直「嘉永三年東高梁川洪水と岡山藩領児島郡村々」『倉敷の歴史』第31号,2021年】
資料6 「〔大橋宛徳田尚二書状〕」 (大橋紀寛家文書別4-29-7)NEW! 岡田藩の財政担当奉行である徳田尚二が,6月5日に大橋正直に宛てた書状です。四方が水で池の中に祀られた弁天のようになり,徳田は出仕も船で往来していること,いまだ二階に住んでいることなど、水害直後の川辺村・岡田村周辺の様子を伝えています。