明治13年の水害

明治13年の水害

明治13年の水害


明治13年(1880)7月1日,梅雨時の豪雨により岡山県内各地で水害が発生し,罹災者は県下全体で3万6174人,溺死者は70人にのぼりました。とりわけ高梁川は,総社と川辺の間で右岸・左岸とも各所で決壊し(28日に再決壊),下道郡と窪屋郡(北部)の被害は特に甚大でした。嘉永3年や明治2年に決壊した東高梁川の四十瀬付近の堤防は、必死の防御工作によりかろうじて破堤をまぬがれました。この水害は人びとに大きな衝撃を与え、これをきっかけとして岡山県ではさまざまな治水対策が講じられてゆくことになります。
ここに紹介する3点の資料以外に,窪屋郡長として事に当たった倉敷村の林孚一が書き残した記録,水害の要因となる川底への土砂の堆積を防ぐためには何より治山が大切であることを説いた宇野円三郎の意見書などは,このウエブサイトの「災害関連講演資料」の「明治13年の高梁川水害について」の項目に要約を載せていますので,あわせてご参照ください。
資料1 「明治十三年七月一日洪水被害諸取調表 備中国下道郡有井村」 (倉敷市所蔵片岡家文書3-15) 下道郡有井村(倉敷市真備町有井)では,小田川の支流末政川の決壊などによって33人もの犠牲者が出ました(この資料では27人)。この資料には,有井村131戸の戸別の被害状況などが詳細に記されています。流失・全壊家屋はあわせて62棟、荒地は30町歩(約30ヘクタール)以上にのぼっています。裏を見ると,小屋掛け料などの拝借に関する使用済みの文書を貼り継いで作られていることも分かります。なお,この資料は,平成30年7月豪雨により1階部分が浸水したお宅の2階から発見されたものです。
資料2 「水災ハ人事ヲ尽サザルニ生ズル論」 (『山陽新報』明治13年7月9日) 水害発生から8日後の7月9日,『山陽新報』は社説を掲げ,このたびの惨事は堤防の整備や土砂の浚渫を怠っていたために起こった人災であり,今後は一層の治水対策の充実が必要であると説いています。また,被災地の感覚が地方政府さらには中央政府に理解されないという問題も指摘され、公的扶助の重要性が強調されています。
資料3 「治水工事御施行願」 (倉敷市真備ふるさと歴史館所蔵岡田文庫F-9-1「明治十三年十一月 高梁川・小田川水路更正事件ニ係ル書類」) 水害の翌年の明治14年,下道郡役所では高梁川・小田川の治水工事の実施を県に願いました。そこでは川底の土砂を自然に流下させる機能をもつ粗朶工(ケレップ水制)というオランダ式工法の採用がつよく求められています。この願書を起草したのは,郡書記の高見実真(もと岡田藩士)という人物で,その情理を尽くした筆致には彼の苦渋の思いが滲んでいます。