明治26年の水害

明治26年の水害

明治26年の水害


明治26年(1893)10月14日,台風に刺激された秋雨前線の活発化により,数日前から雨が降り続き,高梁川をはじめとする岡山県内河川の水位が上昇しました。中国山地で盛んだった「カンナ流し」(砂鉄採取)の影響でかねてから河床に土砂が堆積し流水に支障を生じていた高梁川は水位膨張に耐えられず,14日晩から翌日にかけて氾濫し,各所で堤防決壊・越水による大洪水を引き起こしました。この水害により川辺村(倉敷市真備町川辺)は壊滅的な被害を受け,集落のほとんどの家屋が流失または倒壊,54人の住民が溺死しました。当時の高梁川は川辺村の南方で東西2本に分かれて流下していましたが,東高梁川右岸の酒津村一ノ口堤防(倉敷市酒津)・西高梁川左岸の古水江堤防(倉敷市水江)も大きく決壊し,東西高梁川に囲まれた中洲状の地勢に立地する甲内村(倉敷市片島町・西阿知町西原)・西阿知村(倉敷市西阿知町・西阿知町新田)・中洲村(倉敷市酒津・水江・中島)のほぼ全域が水没しました。この時,西高梁川右岸の又串堤防も決壊して船穂村(倉敷市船穂町船穂・船穂町水江・柳井原)が激流に呑まれ,破壊された家屋や住民を乗せた溢水が玉島村(倉敷市玉島1丁目~3丁目・上成)の市街地域に押し寄せて大きな被害を出しました。東高梁川左岸は大きな被害をまぬがれたものの,倉敷川・吉岡川などの堤防が破断し粒江村(倉敷市粒江・黒石・粒浦・八軒屋・東粒浦)が床下浸水の被害に遭っています。被害にあった流域各地域では住民が瀬戸内海まで流され,船舶や島嶼部の人々に救助されたと伝わっています。岡山県内全体で溺死者423人・流潰家屋6240戸もの被害を出したこの水害は,近代に入って高梁川が引き起こした水害としても最大規模のもので,高梁川付替え・一本化をともなう本格的治水工事が始動するきっかけともなりました。
【参考文献:『岡山県水害史』下巻,岡山県庁,1901年。木谷重春写『天変破堤実記』私家版,広報まび№111~113に掲載,1894年。『真備町史』真備町,1979年,吉沢利忠『沈む島 消えた町』山陽新聞社,1984年。『岡山県水害写真帖』,1893年。「岡山県備中国水害書」宮内公文書館50760,書陵部所蔵資料目録・画像公開システムhttps://shoryobu.kunaicho.go.jpに掲載】
資料1 「難波九一郎宛黒瀬道次郎はがき」 (倉敷市所蔵難波家文書13-25-14) 水害発生の3日後,倉敷町在住の黒瀬氏が庄村下庄(倉敷市下庄)在住の難波氏に近隣の被害概況を伝えたはがきです。東西高梁川に囲まれた「河内」地域の水江付近から山陽鉄道鴨方駅(現・JR鴨方駅)付近までが湖水のごとき有様となっており,深く水没した西阿知・西原・中島・片島ではわずかに屋根の棟が水面に出ているくらいという,凄惨な状況が報じられています。「山北」と呼ばれる福山山系以北(総社・清音方面)や酒津といった上流で水が溢れたため倉敷町は危難を逃れた,と述懐されています。
資料2 「荒地御免租願ニ付実地見取絵図」 (倉敷市所蔵船穂公民館より移管文書102-11-22「明治廿六年十二月 荒地御免租年期願 大字船穂 浅口郡船穂村」) 氾濫した西高梁川の水流は右岸の船穂村水江(倉敷市船穂町水江)の一ノ口水門付近に押し寄せて又串堤防を破壊,下流の船穂村船穂(倉敷市船穂町船穂)を襲いました。本図は当時の船穂村船穂において,水害によって土砂や岩が流入したり激流に地面が掘り取られたりして荒地と化し,税金免除の対象となった場所を色分けして示したものです。山陽鉄道(現JR山陽本線)の路線敷より北側,ちょうど「高瀬通し」の両岸沿いに被害地が集中しているのは,又串から流れ込んだ河水が怒涛となって「高瀬通し」を伝い南方へ押し出されたためです。船穂村全体では228戸が流出し,5人が犠牲になりました。
資料3 「陳情書」 (倉敷市所蔵日名家文書1-1-2-1) 岡山県議会において小田川改修工事の経費盛り込みが実現するよう,大正9年(1920)吉備郡呉妹村(倉敷市真備町妹・尾崎)・穂井田村(真備町服部・玉島陶・玉島服部)・二万村(真備町上二万・下二万)・箭田村(真備町箭田)・川辺村(真備町川辺)・薗村(真備町有井・市場)の各村長が連名で岡山県会議員に協賛を依頼した陳情書です。参考資料として添付された「明治二十六年小田川水害被害現況」には,現・倉敷市真備町地域の村ごとの被害が詳細に記されています。被災家屋が総計394戸に達した川辺村では,そのうち6割の242戸が流失し54人が溺死するという甚大な被害が生じていたことがわかります。また,流失家屋は少ないものの穂井田村・箭田村で300戸前後の家屋が全壊・半壊または浸水被害に遭い,それぞれ死者が出ていたこともわかります。穂井田村地内右岸では大正9年段階まで小田川堤防の改修が進んでおらず,繊弱な旧堤防のままだったと本資料に記されており,そのため川辺村に次ぐ大きな被害に遭ったものと思われます。