明治以降の旱魃

明治以降の旱魃

明治以降の旱魃


旱魃(かんばつ)とは少雨による水不足のことです。明治以降,倉敷市域に特に大きな被害をもたらした旱魃として,明治9年(1876),大正13年(1924),昭和14年(1939)の状況を示す資料を紹介します。
倉敷観測所で計測された大正13年の年間降水量は733.1ミリと例年の3分の2に過ぎず,7月の降水量はわずか11.0ミリでした。昭和14年はさらに少なく,607.6ミリしか年間降水量がありませんでした(『岡山県統計年報』)。
干拓地など,もとから水不足に悩まされがちであった地域では,特に深刻な被害となり,それに対処するための農業用水の整備や農業機械の導入などにも力が入れられました。
資料1 「岡山下備前国第三拾六区三番小区 児島郡黒石村旱害地見取絵図」(倉敷市所蔵永山家文書11-101-2)NEW! 明治9年の旱魃後,翌10年1月に児島郡黒石村(倉敷市黒石)が救済金の拝借を申請するにあたって作成された絵図です。北部の吉岡川に近い地域は「無難」(被害なし)と記されていますが,山際の地域には「替無(皆無の誤記)」(収穫なし),その間の地域には「八部」「六部」などと被害の程度が書きこまれています。「無難」の面積が多い黒石村は比較的被害の少ない村で,村によってはさらに大きな被害が出た模様です。
資料2 「大正拾参年 役場日誌 帯江村役場」(倉敷市所蔵旧帯江村役場文書50-30-27)NEW! 大正13年の都窪郡帯江村の役場日誌の天候欄には連日「晴」の文字が並び,連日のように旱害への対応状況が記されています。帯江村の加盟する高梁川東西用水組合は湛井十二ヶ郷用水組合に対して「譲水」を要望するも実現に至らなかったり,隣の豊洲村とのあいだで取水方法をめぐって緊迫した状況があったことも分かります。写真に示した8月18日の記事では,ついに飲料水までもが欠乏し「渇水その極みに達し,いかんとも為し能わず」と記されています。記事の末尾の数字は,この日の高梁川東西用水組合の各水系別の配水分量です。
資料3 「耕地関係旱害応急施設関係書類」(倉敷市所蔵旧連島町役場文書65-23-2)NEW! この資料は,昭和14年11月,浅口郡連島町の東高梁川廃川地を耕作する東川新田農家組合が,旱害対策の応急施設に要した費用について補助金の交付を申請したものです。このように連島町では各農家組合ごとに,揚水機(バーチカルポンプ)やそれを動かす石油発動機を購入したり,用水を確保するための瀬掘り(川底を掘ること)や掘井戸なども行っています。岡山県南地域は農業機械化の先進地域でしたが,それは旱害との闘いのたまものでもあったのです。
また,戦時下に起こったこの旱魃は政府や軍部にも衝撃を与え,一層の「食糧増産」が叫ばれることになりました。
資料4 「高梁川東西用水酒津取水樋門口水位観測表」(倉敷市所蔵旧帯江村役場文書50-30-13)NEW! 昭和19年6月,高梁川の水位は旱魃が懸念される兆候を示しました。そこで高梁川東西用水組合では酒津取水樋門(笠井堰)における同年の水位に加えて,比較のために,大正13年と昭和14年の大旱魃時の水位も書き入れたグラフを作成し,関係の市町村に配布しました。点線が大正13年,一点鎖線が昭和14年,実線が昭和19年の水位を表しています。