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伝統工芸品

伝統工芸品
倉敷のい業

由来

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市内松島の両児(ふたご)神社は五座(ござ)八幡宮またはござ茣蓙(ござ)八幡宮ともいわれ、藺草(いぐさ)の神として信仰されており、「古代里人が野草を編み、停泊していた船中の神功皇后に差し上げたという」伝承が残っている。この辺りで早くから草などによる敷物の生産が行われていたことを示すものである。

い草の作付量の変化

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岡山県南部は温暖な気候に加え、近世以降の新田開発に換金作物が奨励されたこともあって綿やい草の栽培が盛んになり、江戸中期以降、特にい草の一大産地となった。
 岡山県下のい草の作付面積を歴史的にみると、昭和35年には、3,700haで全国1位、昭和39年には5,500haと最高を記録した。その後、市内の水島臨海工業地帯の隆盛に伴って農村の青壮年層が工場の労働者として流出し、作付面積は減少に転じた。平成11年で15ha、うち倉敷市分は7.6haにすぎないが高級畳表(栗坂表)産地として知られている。

い業の隆盛

江戸時代の正徳から享保年間(1711~1736年)に刊行された「和漢三才図会」に、すでに岡山県が畳表の産地として掲載されている
 岡山県のい製品が本格的な発展を遂げるのは、明治11年に市内茶屋町の磯崎眠亀(みんき)が「錦莞莚(きんかんえん)」(染色い草を緯糸とし、綿糸を経糸として模様を織り出した花莚)を発明したことによるものであり、以後、これが輸出産業として発展していった。主な出荷先はアメリカ合衆国で、用途はカーペットの代用品としてのものであった。
 輸出花莚は西阿知地区を中心に、畳表は市東部から岡山市西部にかけて盛んになった。特に西阿知地区に花莚が移入されたのは、明治30年頃で、その後織機の改良やデザインの工夫などにより全国一の生産量になった。昭和29年発行の「岡山県藺業発達史」の業界展望によれば「同地区が世界一を誇る輸出花莚の王座として斯界(しかい)に君臨している」と記されている。当時、高梁川の堤防には、花鳥風月などをプリントした捺染花莚、無地ものの花莚、あるいは花柄や幾何学模様を織り込んだ織込花筵が一面に日干しされ、近隣の農家からは早朝から夜遅くまで織機の音がガチャン、ガチャンと鳴り響いていた。
 しかし、昭和30年代以降は、P.P.花筵が一時活況を呈したものの、水島臨海工業地帯で働けば安定した高収入が得られることから、農家の副業的な花筵製織は減少の一途をたどっていった。現在は、少数の業者が「岡山の花ござ」のブランドで高級花筵を生産している。一方、畳表は、昭和30年代から40年代前半まで全国一の生産を続け(市内の早高、高須賀、帯高のいわゆる三高地区が主産地)、業界に君臨したが、水島臨海工業地帯からの煙害もあって、昭和40年代後半以降、九州に産地が移っていった。なお、価格の安い畳表や花筵は近年、ほとんどが輸入品に変わっている。

い業の現在

岡山県が作成している「い業生産流通実態調査報告書(平成11年3月)」によれば、「中国ではすべてのい製品が安価で生産されていて、輸入品に対する依存率は高くなっている。国内における生産は特殊物か極上物の対象が多く、その他い製品は価格競合で輸入品が有利なようで、国内で生産しても、一般物は容易に売れないことから、企業として継続できない状態にて、最近休廃業者が特に多く、活力低下が強く伺え、極めて残念なことであり」とあり、更に、「それぞれの分野で自助努力により隘路を切り開き、(中略)更なるご活躍を期待いたすところであります」となっており、今の藺業界の置かれた状況を端的に表している。住宅の洋風化等による畳需要の低下など、い業を取り巻く環境は大変厳しいが、倉敷市の伝統ある地場産業の代表として、畳表(全国的に名声を博している栗坂表)・花筵の製織を継続・発展させ、次代へ引き継いでいく必要がある。

補 足

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昭和27年、岡山県は特産品である藺製品の生産改良と品質向上、生産意欲の高揚をはかるため、「岡山県い業祭」を開催し、今日に至るまで毎年10月に開催されているが、その優秀作品を、岡山県い業振興協会のご協力により、近年、市内の商店街で「い業のふるさと-倉敷」と題して一週間にわたって展示しており、一般の方の好評を得ている。

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崎眠亀の住宅兼研究所を全面改修して、錦莞莚関係の資料を展示する「磯崎眠亀記念館」(倉敷市茶屋町195番地 Tel.086-428-8515)をオープンしており、花筵関係者のみならず、多くの方に観ていただいている。