沿革

沿革


時代とともに守り、開かれた伝統的建造物群




沿革

 保存地区は標高36.8mの鶴形山の南ろくに位置し、鶴形山の周辺一帯は阿知の潟と呼ばれる浅海であったが、高梁川の沖積作用による堆積が進み、 1584年(天正12年)宇喜多秀家による潮止め工事が大々的に行われ、新田が開発された。1600年(慶長5年)には備中国奉行領になり、翌年の 1601年(慶長6年)には検地が行われた。倉敷村はこのような過程の中から生れてきた。
 当時、この地域には多くの人々が居住し、1609年(慶長14年)の水夫屋敷の帳面に172筆が記録されている。その後、1642年(寛永19年)には幕府直轄地のいわゆる天領として幕府の支配下におかれ、物資輸送の集散地として、また、急速に開発が進んだ周辺新田地帯の中心地として繁栄するようになった。そして有力な町人(商業地主)層があらわれ、人口も急増し、元禄年間から文政年間の約130年間に人口は2倍に増加し、活況を呈するようになった。
 こうした背景のなかで、保存地区の特性である本瓦葺塗屋造りの町屋と土蔵造りの蔵などを中心とした町並が形成された。その後、若干の洋風建築(美術館、旧町役場)が建てられたが現在では違和感は無く、鶴形山の緑や倉敷川畔の柳並木と調和し、優れた歴史的景観を形成している。


 天領地に栄えた商家のたたずまい

 1642年(寛永19年)に天領地になり、代官が置かれた頃、倉敷村は新田開発等によって大きく発展し、川畔は以前にもまして活気を帯びていった。寛政年間(1789~1801)になると、商業的な成功者が現れ、徳川初期から村を支配してきた「古禄」と、経済の発展で台頭してきた「新禄」は、激しい対立を繰り広げた。現在残る保存地区の建物は、この時代の豪商の商家を原型とするものが多く、町並みの景観を特徴づけている。
 建物の特徴としては、町家はほとんどが塗屋造りで、蔵はすべて土蔵造りになっている。意匠としては、倉敷窓や倉敷格子(親つき切子格子)が特徴的で、白色漆喰仕上げになまこ壁のコントラストも美しい。特に大きな商家が集まっていた倉敷川畔とその両側に続く町並みには規模の大きなものが多く、保存地区の主要な骨組みとなっている。


 新しい時代の先覚者たちが開いた町並み保存の道

 慶応4年に代官所が廃止され、明治維新によって社会が大きく変動すると、一時ほどのにぎわいはなくなった。
 そのような状況の中で、倉敷はもとより、関西の経済界に大きな足跡を残した実力者が登場し、“商人の町”で知られた倉敷は新たな経済の時代を迎えた。その一族は、経済活動と共に社会事業にも尽力し、倉敷の文化の発展に大いに貢献した。彼らの発案で倉敷川畔にも洋風建築のモダンな美術館や建物が建てられたが、それがまた周辺の江戸期以来の建物や自然環境などと溶け合って、独特なムードを作りだした。
 彼ら一族の中に、町並み保存の重要性に着目した人物がいた。彼は「倉敷をドイツの歴史的都市ローテンブルクのようにしたい」との考えを抱いたが、戦争を目前にして実行に移すことはできなかった。しかし、この思想は後の文化人に多大な影響を与え、建築や民芸といった立場での戦後の保存活動へとつながっていった。
 昭和30年代後半、これら有志による先覚者主導型の活動は、行政・住民主体の取り組みへと拡大していった。市は昭和44年には保存計画が告示し、「倉敷川畔特別美観地区」が指定した。
 さらに昭和54年に「重要伝統的建造物群保存地区」(13.5ha その後平成10年に15haに拡大)として国の選定を受けるまでになった。また、平成2年には全国にさきがけ背景保全条例を制定した。平成12年に景観法に基づく景観条例を制定、その後景観法が施行されたことにより、景観法に基づく景観条例として改正し、積極的な保存対策を講じている。
 400年近くの歴史をもつ町並み。天災に見舞われることも少なく、戦災にも遭うことなく今日を迎えた。しかし、それだけではよりよい保存は望めなかったにちがいない。今日に至るまでには、町並みの文化的な価値にいち早く目を向けた先覚者たちの多大な尽力と、地域住民の町を愛する気持があったからであろう。