亀山家文書

亀山家文書

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足利尊氏感状 【標題】足利尊氏感状
【資料番号】1-1
【作成年月日】建武3年(1336)7月15日
【解説】 足利尊氏が、自らに従って軍功を立てた中嶋幸家(通称:左衛門次郎)の忠節をたたえ、後日恩賞を与えることを約束したもの。後醍醐天皇方の軍勢と京都・摂津近辺で戦って敗北し九州へ逃れていた尊氏は、この年再起して上京作戦に着手する。尊氏・直義兄弟の率いる足利軍は 備中国福山城(岡山県総社市)で新田義貞軍を、摂津国湊川(兵庫県神戸市)で楠木正成を破り、無事入京を果たした。合戦終結後に出されたこの感状によって、中嶋幸家が尊氏の上洛戦に協力していたことが窺える。この資料とほぼ同文の感状が、播磨国の安積盛氏らにも与えられたことが知られており、一連の戦いに山陽道沿線の武士が多く馳せ参じ、尊氏の復活に寄与したものと考えられる。なお、この感状の花押は青墨で書かれている。
尊氏花押
足利直義下文 【標題】足利直義下文
【資料番号】1-2
【作成年月日】康永3年(1344)10月9日
【解説】 足利尊氏の弟で、兄が開いた室町幕府の政権担当者として大きな権力をふるった直義の文書。「左兵衛督」(さひょうえのかみ)は直義の官職名。この頃、中嶋家の惣領(本家)が隆家の代まで引き継いできた美作国高野郷(岡山県津山市草加部・野村・高野本郷・押入・高野山西付近)の地頭職を、隆家の子息中嶋幸家が継承することになった。そこで、直義は中嶋隆家が幸家に地頭職を譲ることを約束した元徳二年(1330)の「譲状」を根拠に、幸家が高野郷地頭職を受け継ぐことを承認したのである。この文書によって、中嶋氏が美作国高野郷を本領とする鎌倉時代以来の武家であったことがわかる。
直義花押
浦上宗景判物 【標題】浦上宗景判物
【資料番号】2-1
【作成年月日】天正2年(1574)9月5日
【解説】 戦国時代に備前国一円と美作国東南部・播磨国西部を支配した浦上宗景が、中嶋吉右衛門尉に与えた判物(花押を据えた文書)。中嶋氏は、美作国高野に存在した牧佐介一族の旧領を何らかの事情で保有していた。宗景は、中嶋吉右衛門に命じてこれを差し出させたが、その代替として美作国東半国から徴収した段銭百貫文などを吉右衛門に与え、忠義に励むよう命じたのである。天正2年は、宇喜多直家が浦上氏と断交し、両軍の合戦が各地で行なわれた年に当たる。
宗景花押
浦上宗景判物 【標題】浦上宗景判物
【資料番号】2-2
【作成年月日】天正2年(1574)9月5日
【解説】 浦上宗景が、美作国広野(岡山県津山市近長・川面・田熊・福井)の土地領有権を中嶋吉右衛門尉に与えることを伝えた判物。来るべき宇喜多氏との戦争に備え、兵糧確保の名目で中嶋氏の所領を加増し、一層の忠義を命じたものである。
宗景花押
浦上宗景書状 【標題】浦上宗景書状
【資料番号】2-3
【作成年月日】(年未詳)七月晦日
【解説】浦上宗景が中嶋吉右衛門尉に対し、軍事行動に関する指示を与えた書状。宗景は「大松」という名前の軍事拠点(岡山県赤磐市石上の大松山か)に小嶋・岡崎氏といった家臣を置いて番をさせていたが、急用で彼等を呼び戻すことになった。そこで宗景は中嶋吉右衛門尉に対し、彼の兄弟に20人ほどの兵を添えて「大松」へ向かわせるよう命じ、小嶋氏らの代わりに「大松」の番をさせたのである。
花押
前野長泰書状 【標題】前野長泰書状
【資料番号】2-4
【作成年月日】(天正6年=1576)1月21日
【解説】羽柴秀吉の腹心の一人前野長泰が中嶋一族に通信した書状。これより先、中嶋吉右衛門尉らは織田信長を頼って美作国の旧領を回復するため、自らの所領を書き上げた目録を織田氏に提出していた。長泰からこの目録をみせられた秀吉は、中嶋一族の意向を了承したという。そこで、長泰は、織田信長が鷹狩から帰還しだい、所領安堵の朱印状発行が実現するよう信長に働きかけることを中嶋吉右衛門尉兄弟に返答したのである。なお、中嶋吉右衛門尉は伝手のない織田氏に連絡するため、山中鹿介の部下加藤彦四郎を頼り、兵糧米の支給などの援助も受けていたことが知られる。
前野長泰花押
浦上宗景書状 【標題】浦上宗景書状
【資料番号】3
【作成年月日】(天正3年=1575カ)7月10日
【解説】美作国久米南条郡蓮花寺城(岡山県久米郡久米南町全間)をめぐる戦いに参加した中嶋吉右衛門尉ほかに対し、浦上宗景が与えた書状。天正2年(1574)春、宇喜多直家が主家の浦上氏と断交したとき、美作国南部の領主沼元・菅納氏らは宇喜多氏側に味方して蓮花寺城にたてこもった。浦上宗景は軍勢を派遣して蓮花寺城を攻めたものの、城方の激しい抵抗にあって敗北する。この資料によって、中嶋一族が浦上氏に味方して城攻めに参加していたことが判明する。宗景は敗戦で負傷した吉右衛門尉らを気遣い、その辛労に謝している。
宗景花押
羽柴秀吉知行安堵状 【標題】羽柴秀吉知行安堵状
【資料番号】4
【作成年月日】天正六年(1578)3月15日
【解説】羽柴秀吉が中嶋一族に対し、美作国内の所領(作州知行分)1,150貫文を安堵する旨伝えた文書。浦上氏の滅亡と共にいったん没落した中嶋一族は、中国征伐のため播磨国まで進出してきた織田信長の部将羽柴秀吉の道案内を勤めることで本領回復のチャンスをつかもうとした。上掲の前野長泰書状(資料番号2-4)は中嶋一族の所領回復運動の一端を伝えたものだが、この安堵状は、こうした中嶋一族の願いに応えた秀吉が、中嶋吉右衛門尉とその弟2人の本領安堵を約束し、ますます忠節に励むよう伝えたものである。
羽柴秀吉花押