甕の海の干拓者

甕の海の干拓者

前回は玉島が江戸時代初期ごろまで海だったことを説明しました。今回はどのように干拓されてきたかを水谷勝隆・勝宗2代の歴史を簡潔に追いながら説明していきましょう。


水谷勝隆は1597年、水谷勝俊の長子として京都で生まれました。その後、1606年に父勝俊が病没したのを受けて、遺領3万2千石を継いで、下館城内(現在の茨城県)に移り住みました。大阪冬の陣・夏の陣で功を挙げるなど活躍した後、1639年に勝隆は備中成羽に移封となります。その際に乙島村・柏島村を領有したことが玉島との結びつきの始まりでした。

その後3年ほどたった1642年、松山領主池田長常が没すと、嗣子がいなかったため、池田氏は除封されてしまいます。これを受けて、勝隆は備中松山城主となりました。このとき、乙島村と柏島村に加えて、長尾村と黒崎村も領有することになったのです。

(どのように玉島が干拓されてきたかはコチラをクリックしてください。)


勝隆の時代は長尾外新田から始まりました。その後、船穂・勇崎・上成などを干拓していきました。2代目勝宗の時代には阿賀崎・柏島などを干拓していました。

外港がなく、石高増が必要だった松山藩はこうして広大な農地と瀬戸内海で有数の商港を手に入れることになったのです。

なぜ、こんなにも広大な干拓を進めていくことができたのでしょうか。

それは、高梁川下流の三角州の発達や遠浅の海、また島々の配置が新田開発するにあたって絶好の条件に位置していたため、といわれています。

ところで、皆さんは玉島港付近の小高い丘に鎮座する羽黒神社をご存知でしょうか。実はこの羽黒神社、干拓の歴史と深いつながりのある神社なのです。勝隆は玉島・上成・爪崎新田の開発をする際、この大工事完成を祈願するため、旧領地である常陸国下館(現在の栃木県)に鎮座してある羽黒宮を移し祀りました。この羽黒宮こそが現在の羽黒神社の起源となったわけです。羽黒山は玉島干拓を象徴する場所として、今も地元の人々に親しまれています。

このように、玉島は干拓を進めていき、阿賀崎新田の開発が終わる頃には商港として確立されていくことになります。玉島港は近世を通じて備中松山城下の外港として繁栄しました。繁栄した理由としては、その他にも高瀬通が設けられたことが挙げられますが、それは次回に玉島港の繁栄ぶりや、その後衰退していった理由などと合わせて説明したいと思います。

  2