資料1‐①「明治二年己巳孟春ヨリ季夏迄録ス 諸用日記 西家」(倉敷市所蔵尾崎家文書)
(表紙)
解説
7月5日,加須山村庄屋の亀五郎のもとに,倉敷川の小瀬戸の堤防が破損し,また周辺で崖崩れも起こっているとの知らせが入りました。亀五郎は急いで現場に向かい,崖崩れの状況をスケッチしています。嘉蔵の家の裏山が約10間(約18メートル)にわたって崩れ,下の畑から用水を超えて向かいの田にまで流れ込み,約2畝(約2アール)を埋めました。「誠に大造(大規模)なる崩れ様なり」と亀五郎は記しています。
資料1‐②「明治二己巳七月五日ゟ 洪水ニ付諸日記 加須山村里正」(倉敷市所蔵尾崎家文書18)
(表紙)
解説
洪水発生から10日後の7月15日,亀五郎は四十瀬新田村の東高梁川の決壊地点を見分に出かけ,その様子をスケッチしました。図の上が北。東岸の破堤個所は長さは100間(約180メートル)におよび,図の右下に向かって氾濫した水流が描かれています(このとき四十瀬新田村と四十瀬村ではあわせて30軒もの家屋が流失)。土嚢を積んで破堤個所をふさぐ工事も進められていて,翌16日にはその工事も完成しました。亀五郎は,5日の増水時に現地の村役人が油断して,防御のための人員を十分に出さなかったことが破堤の要因だとも記しています。