資料3 陳情書

資料3 陳情書

資料3 「陳情書」(倉敷市所蔵日名家文書1-1-2-1)

資料3-2

資料3-1

明治二十六年小田川水害被害現況・大正九年小田川洪水被害調


※原資料の縦書きの表を横書きとし,漢数字を算用数字に改め,明治26年小田川水害被害現況の表についてはわかりやすいよう各項目の単位(戸・人・反など)を追記するなど改変を加えている。

翻刻

陳情書
陳情ノ要旨
今回本県会ニ提出セラレタル小田川改修工事費速ニ協賛アランコトヲ冀フ
理由
本川ハ源ヲ広島県神石郡ニ発シ東流十五里ニシテ吉備郡川辺村ニ至リ高梁川ニ合流ス,抑モ本川ハ幅員不整曲折,殊ニ明治ノ初年ヨリ土砂埋堆シ,屢々出水汎濫シテ堤防ヲ決潰シ,人畜ノ死傷家屋ノ流失土地ノ荒廃其数幾何ナルヲ知ラズ,就中明治十三年同十九年及廿六年水災ノ如キハ,惨害言語ニ絶シ其痕跡歴然トシテ今尚存ス,往時ヲ追懐スレバ戦慄禁スル能ハサルモノアリ,其他明治廿三年・同廿五年・同三十二年,近クバ大正八年及本年水災ヲ被リ,殊ニ本年ノ如キハ新聞紙上若シクハ実地御視察ニ依リ,其惨害ノ如何ニ激甚ナリシカハ御諒知ノコトト信ス,
往年内務省ニ於テ高梁川改修ニ伴ヒ之ガ逆水防止ノ為メ,呉妹村大字尾崎字黒宮以東川辺村ニ至ル左岸ハ完全ニ改修セラレタリト雖モ,右対岸及黒宮以西ノ左岸穂井田村地内ニ於ケル右岸ハ,繊弱ナル旧堤ノ侭ナルヲ以テ其水害年ト共ニ加リ,殊ニ高梁川改修ニ伴ヒ同川西派線ヲ堰止メ,東西用水組合ノ貯水池設置セラルヽト聞クヤ,小田川ニ及ボス悪影響ノ甚大ナルヲ憂慮シ内務省及当時笠井県知事ニ対シ小田川改修ノ請願ヲ為スニ至リ,当時知事ニ於テモ其意ヲ了セラレ,本川ノ基本調査ヲナシ,其計画ハ確定セリト雖トモ経費ノ多大ナルニ依リ,荏苒時日ヲ経過シ今日ニ至ル,然ニ昨今両年ノ水害ニ遭遇シ現任香川知事へ対シ困憊ノ極ニ達セル災余ノ沿岸被害民血涙ヲ絞リ敷地全部ヲ寄附シ速ニ起工アランコトヲ請願セシニ,幸ニ多大ノ憐愍ヲ加ヘラレ今期本県会ニ対シ之カ経費ヲ提案セラルヽニ至リタリ,幸ニ深キ御同情ニ依リ満場一致御協賛アランコトヲ懇請ノ至リニ不堪候 恐惶謹言

大正九年十二月六日

吉備郡呉妹村長

日名清三郎

同 郡穂井田村長

丹羽五郎

同 郡二万村長

木谷 靖

同 郡箭田村長

土師隆治

同 郡川辺村長

定広輝治郎

同 郡薗村助役

田中喜一郎

岡山県会議員     殿

読み下し

陳情書
陳情の要旨
今回本県会に提出せられたる小田川改修工事費速やかに協賛あらんことを冀(こいねが)う
理由
本川は源を広島県神石郡に発し,東流十五里にして吉備郡川辺村に至り高梁川に合流す。そもそも本川は幅員不整曲折,殊に明治の初年より土砂埋堆し,しばしば出水汎濫して堤防を決潰し,人畜の死傷・家屋の流失・土地の荒廃その数幾何(いくばく)なるを知らず。なかんづく明治十三年・同十九年及び廿六年水災のごときは,惨害言語に絶しその痕跡歴然として今なお存す。往時を追懐すれば戦慄禁ずる能(あた)わざるものあり。その他明治二十三年・同二十五年・同三十二年,近くば大正八年及び本年水災をこうむり,殊に本年のごときは新聞紙上もしくは実地御視察により,その惨害の如何(いか)に激甚なりしかは御諒知のことと信ず。
往年内務省において高梁川改修に伴いこれが逆水防止のため,呉妹(くれせ)村大字尾崎字黒宮以東川辺村に至る左岸は完全に改修せられたりといえども,右対岸及び黒宮以西の左岸・穂井田(ほいだ)村地内における右岸は,繊弱なる旧堤のままなるを以てその水害年と共に加わり,殊に高梁川改修に伴ひ同川西派線を堰止め,東西用水組合の貯水池設置せらるると聞くや,小田川に及ぼす悪影響の甚大なるを憂慮し内務省及び当時笠井県知事に対し小田川改修の請願をなすに至り,当時知事においてもその意を了せられ,本川の基本調査をなし,その計画は確定せりといえども経費の多大なるにより,荏苒(じんぜん)時日を経過し今日に至る。しかるに昨今両年の水害に遭遇し現任香川知事へ対し困憊(こんぱい)の極みに達せる災余の沿岸被害民血涙を絞り敷地全部を寄附し速やかに起工あらんことを請願せしに,幸いに多大の憐愍(れんびん)を加えられ今期本県会に対しこれが経費を提案せらるるに至りたり。幸に深き御同情により満場一致御協賛あらんことを懇請の至りに堪えず候(そうろう)。恐惶謹言(きょうこうきんげん)。

大正九年十二月六日

(署名・宛所省略)

意訳

陳情書
陳情の要旨
今回の岡山県議会に提出された小田川改修工事費について,速やかに協賛することを希望します。
理由
本川(小田川)は源流を広島県神石郡に発し,東に向かって流れること15里で岡山県吉備郡川辺村に至り高梁川に合流する。そもそもこの小田川は幅員が整わず曲折しており,特に明治初年より土砂が川底に堆積し,しばしば出水氾濫を起こして堤防を決壊させ,人や家畜の死傷数・家屋の流失数・土地の荒廃の規模はどれほどかわからないほど甚大である。とりわけ明治13年・同19年・同26年水害などは,惨害言語に絶するほどで水害時の痕跡が歴然として今もなお残っている。その当時を思い起こせば戦慄を禁じ得ないものがある。そのほか明治23年・同25年・同32年,近いところでは大正8年および今年も水災に遭い,特に今年は新聞紙上もしくは実地御視察によって,その惨害がいかに激甚なのか御承知のことと信じている。
往年内務省において高梁川を改修する際高梁川からの河水逆流を防ぐため,呉妹村大字尾崎字黒宮より以東,川辺村に至る小田川左岸堤防は完全に改修されたものの,小田川の右対岸および黒宮以西の左岸堤防・穂井田村地内の右岸堤防は,繊細で弱い旧堤防のままなので水害は年を経るごとにひどくなり,殊に高梁川改修にともなって同川の西派線(西高梁川)を堰き止め,東西用水組合の貯水池を設置するとの予定を聞いて,小田川におよぼす悪影響の甚大なことを憂慮し内務省および当時の笠井岡山県知事に対して小田川改修の請願をすることになり,その当時県知事もその意義を了解されて,小田川の基本調査を行い,改修計画そのものは確定したけれども経費が多大にかかるということで,物事がはかどらず延び延びになり時日ばかりが経過して今日に至っている。そうしたところへ昨今大正8年・9年と両年にわたって水害に遭遇し現任の香川岡山県知事に対し困憊の極みに達した災害地域の小田川沿岸被災民が血涙をしぼって堤防用地として必要な敷地全部を寄附し速やかに小田川改修工事を起工してほしいことを請願したところ,幸運にも多大の憐愍を加えられ今期岡山県議会に対し河川改修の経費が提案されるに至ったのである。深く御同情いただき満場一致で御協賛いただけるよう懇請するばかりである。恐惶謹言

大正9年12月6日

(署名・宛所省略)