乙島

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源平水島合戦城跡 ~常照院~

 源平水島合戦城城趾石碑
源平水島合戦城跡の記念碑

この記念碑には以下のことが刻まれています。

第253世天台座主探題大僧正恵諦書

今を去る800年の昔、寿永2年(1183年)閏10月1日、木曽義仲の客将矢田判官代義清、信濃国住人海野弥平四郎行廣率いる源氏軍と、新中納言知盛、能登守教経率いる平家軍が、?条として風荒らぶ水島が途に凄絶なる海上戦を展開、世にいう水島合戦である。

名にしおう味方の水軍に ??に者共、いくさをはゆるに仕?そ、北国のやつばらに生け捕られむをば心憂しとは思わずやらと、絶叫叱咤する教経 宿命的な二つの軍団の運命を暗示するかの如く、天日暗々として俄かにかげり、白砂の磯を紅に染めて源氏軍の惨敗に終わる。

平家方は、『水島のいくさに勝ちてこそ会稽の恥を雪めけれ』星移り時流れ誰か覚ゆ海風吠々たるを。ここに古戦場を俯瞰す城址に懐古の一碑を献じ、つわもの共の霊を弔うものである。

設置物

石碑

設置年月日

昭和58年11月17日

所在

倉敷市玉島乙島257(常照院)

設置者

乙島文化財保存会

高射砲台跡

高射砲台跡その1
 高射砲台その3

高射砲台跡
水溜公会堂の付近に高山へ上がる道があり、そこを登ると荒神社に辿り着きます。さらに道なりに進み、南へ針路を取ると鉄塔が見えてきます。その鉄塔を挟んで東西にこの砲台跡を見ることができます。砲台跡のほか弾薬庫の遺構もこの高山内に見ることができます。

 

終戦間近い昭和20年5月頃、高梁川河口西岸の玉島乙島水溜の高山山頂に、3基の砲台が構築されました。この砲台は、壁や床コンクリートで固められた直径9m、深さ約2mの円計状で、中には12.7センチ高角砲(敵飛行機を攻撃するための大砲)がそれぞれ配備されており、内壁には12箇所の砲側弾薬函が設けられていました。

この砲台は、水島航空機製作所の工場を防御するために設置されたもので、工場の取り巻くように連島の大平山、水島の亀島山・王島山の山頂や中畝のような平地にも同様の砲台が構築されましたが、その中では玉島砲台が最も重装備でした。昭和20年6月の水島空襲(注1)の時には、これらの砲台から反撃が行われましたが、十数機に損害を与えた程度(注2)で、撃墜することはできませんでした。

戦時中、玉島砲台に配備された部隊は水溜地区を中心に滞在しており、水溜や掘貫の民家では、兵隊に風呂を使用させるなどの協力を行いましたが、高山への立ち入りは軍事機密のため、昭和20年8月の終戦まで禁止されていました。

戦後、砲台は破壊されましたが、山頂に円形状の砲台側壁が2箇所と、北西側中腹に高さ・幅約3m、奥行き約10mのコンクリート製弾薬庫が残っています。また、当時は、敵機を捕捉するための電波探信機(レーダー)や、これらの施設に電力を供給するディーゼル発電機も設置されていましたが、今は竹藪の中にわずかに残る石垣などにその名残をとどめるだけです。

(注1この場所は、山道の管理も不十分な上、野犬やマムシなどがいる可能性もあり大変危険な場所となっています。見学に行かれることはお勧めいたしませんのでよろしくお願いします。

(注2)昭和20年6月22日午前8時36分、米軍のB29爆撃機108機の大編隊が水島航空機製作所を爆撃し、工場は壊滅的な被害をうけた。

(注3)米軍の「作戦任務報告書(TACTICAL MISSION REPORT)」による。

 

設置物

看板

設置年月日

不明

所在

倉敷市玉島乙島(水溜公会堂近く)

設置者

倉敷市



徳冨蘆花の歌碑

徳富蘆花の歌碑写真

徳冨蘆花の歌碑

ここ養父が鼻の地は、もともと瀬戸内海岸でも有数の景勝地で、白砂青松の海辺として全国に知られていた。また遠浅で、潮干狩、海水浴、釣魚などの場として四季を通じて賑わい、海中に点在する飛石、はね石、ごろごろ石などと呼ばれた布石の妙は、人々の目を楽しませた。

たまたま明治大正期の文豪 徳冨蘆花(1868年~1927年)が訪れたのは、大正7年の夏で滞在数10日、この地の明媚な風光とこまやかな人情を愛した。

人の子の 貝堀りあらす 砂原を 平になして 海の寄せ来る

この一首は、当時の景観を描いた名歌で、一読今も満ち潮の押し寄せて来る様子が眼前に浮かんでくる。碑は、地元の人々によって昭和8年10月に建てられたが、同18年以来数次にわたって養父が鼻沖は、干拓せられ陸続きとなり、さらに現在のような工場地帯と変わった。かえりみて、まことに今昔の感にたえない。

蘆花には「不如婦」「自然と人生」「思い出の記」などの代表作がある。

 

設置物

歌碑・案内板

設置年

昭和8年(昭和26年改築)

所在

倉敷市玉島1250ー6地先(戸島神社ふもと)

設置者

玉島文化協会