矢出町・中島町・川崎

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西爽亭 ~矢出町~

西爽亭その1
 
西爽亭(旧柚木家住宅) 

本邸は天明年間(1781〜1789年)の建築といわれ、柚木本家、または菅茶山(儒者1748〜1827年)の命名により西爽亭とも称する。

柚木家は、代々備中松山藩(現高梁市内)藩主板倉候に藩の諸役として仕え、藩侯が玉島領内を巡回の際本邸に宿泊するのが習わしだった。従って本邸は、大名の宿泊施設にふさわしい風格を持った構えと造りと装飾がなされ、また庭園の石組みにも由緒があり、格別の趣がある。

幕末動乱期の慶応4年(1868年)鳥羽伏見の戦いにおいて幕府方は敗戦し、大阪城にて老中板倉候護衛の任にあった藩老熊田恰矩芳(1825〜1868年)は、藩侯の命により帰藩しようと隊士(150余名)を率いて海路玉島港に上陸するが、備前藩軍平によって包囲される。

熊田恰は、藩の責任を一身に背負い、部下の助命と藩の安泰、戦火の回避を嘆願して、慶応4年1月22日、本邸にて切腹。これにより玉島は戦火の災から救われた。

本邸は、玉島人にとって忘れ難い維新史の悲壮な一頁をそのまま遺している。

 平成2年11月 玉島文化協会

 

「みなと玉島空間」の「玉島観光地情報」ページにも掲載しています。)

設置物

案内板・石碑

設置年月

案内板 平成2年11月

石碑 不明

所在

玉島3丁目8ー25

設置者

案内板 玉島文化協会

石碑 不明

新島襄先生寄港の地  ~玉島港~

新島襄先生寄港の地その1

同志社大学創設者として知られる新島襄が若かりし頃、人生初の船旅で玉島へ訪れました。

新島襄先生寄港の地

同志社大学の創設者として知られる新島襄(1843~1890)は上野安中藩の江戸藩邸の子息として生れた。 19歳の頃、安中藩の学者川田甕江の漢学塾で学ぶ中、松山藩が購入した洋式帆船快風丸の玉島港への回船を知り、(文久2年・1862年) 甕江の推薦で藩主の許可を得て、快風丸に乗船して玉島港に寄港した。ここで新島は松山藩主も泊まっていた柚木家の風呂に浸かったことが自叙伝に記されている。新島は玉島への回船の中で欧米の文明や文化の高さを初めて知り、洋学への向学心を燃やし、後に同じ快風丸に便乗して函館に着き、上海経由でアメリカに渡り、アーモスト大学に学び、帰国後、明治8年に京都にキリスト教を基に同志社英学校(後の同志社大学)を創立した。まさに玉島は、同志社大学の歴史上のルーツとでも言える所以でもあります。
 平成17年1月 建之

設置物

石碑・案内版

設置年月

平成17年1月

所在

玉島3丁目9ー26付近

設置者

玉島商工会議所・玉島文化協会・玉島観光ガイド協会

玉島灯台(モニュメント) ~川崎~

玉島灯台写真

玉島灯台(モニュメント)

このモニュメントは、玉島柏島の八幡山に設置されていた「玉島灯台」の上層部をそのまま移設保存したものです。

八幡山には、江戸時代に船の灯明台がつくられ明治16年に最初の灯台として「八幡灯台」が設置され、そのあとを引き継いで、昭和26年に「玉島灯台」が建設されました。

以来42年間にわたって玉島港へ出入りする船はもとより、水島灘を航行する船の安全の道しるべとして重要な役割を果たしてきました。

しかし、対岸の玉島E地区の埋立てが進み、灯台の役割が十分果たせなくなったため、平成5年2月約2.8キロメートル沖合いに「水島港玉島防波堤灯台」が新たに建設され「玉島灯台」はそのつとめを終えました。

私たちは、海上交通の安全のため、灯台の果たす役割やそれを支える海上保安庁の任務の大切さを再認識するとともに、通称「八幡灯台」として市民の皆さんに長い間親しまれてきた「玉島灯台」を港町玉島のシンボルとして末永くここに保存するものです。

設置物

モニュメント・案内板

設置年月

平成5年2月

所在

倉敷市玉島3丁目11(川崎みなと公園内)

設置者

岡山県・倉敷市