安政の大地震
安政の大地震は安政元年(嘉永7年・1854)11月4日,午前8時頃に発生した安政東海地震と,その翌日午後4時頃に起きた安政南海地震の総称です。駿河湾から四国沖の沿岸部には連続した3つの震源域があり,マグニチュード8以上の海溝型地震を周期的に発生させています。これが東海地震・東南海地震・南海地震です。3つの地震には連動性があり過去の歴史において同時,もしくは連続して巨大地震を発生させてきました。土佐沖を震源とする安政南海地震は東海地震の32時間後に発生しており,マグニチュード8.4,全国推計死者3万人,全壊家屋2万戸,半壊4万戸,津波流出1万5千戸の巨大地震でした。遺されている資料からは,倉敷市域でも地割れや海鳴り,液状化現象などが起こったこと,余震が長期間継続して発生したことが分かります。
この災害をうけ嘉永の年号は11月27日に安政と改定されました。
【参考文献:『新修倉敷市史 第四巻 近世(下)』倉敷市,2003年。『岡山県南部における南海地震の記録-昭和南海地震・安政南海地震-』岡山県備前県民局,2007年。気象庁ホームページ参照】
資料1
「嘉永七年甲寅正月吉日 御用書類留」
(大橋紀寛家文書Ⅱ-1-A-12) |
大橋紀寛家文書は窪屋郡倉敷村の庄屋や倉敷代官所管下幕府領の掛屋などを勤めた豪農商大橋家に遺された資料です。御用留は代官所からの達や村人の訴状などの御用書類を写し置いた役用の帳面です。この記録は倉敷村の年寄(村役人)の光右衛門が書き置いた嘉永7年11月5日夜の地震の様子を写したもので,倉敷村では大きな被害はなかったものの,町民は家屋倒壊に備えて家を出,仮小屋や野宿で夜を明かしたことが分かります。 |
資料2
「〔日記〕」
(玉島米屋三宅家文書35-19-A-5) |
浅口郡阿賀崎新田村(倉敷市玉島阿賀崎など)の庄屋などを勤めた玉島米屋三宅家に伝わる資料です。この日記は幕末に庄屋を勤め,薮内流茶道を嗜み絵画にも通じるなど,文化人としても知られる三宅安八郎(号・対鷗)の日記です。この資料からは地震の際家族が家を出て船に避難したことや地鳴り・海鳴りがしたこと,11月4日以降も断続的に翌年2月8日まで余震が続いたことなどが分かります。 |
資料3
「寅十二月改元安政元嘉永七寅歳 文談明暮噺」
(倉敷市所蔵大江三宅家文書)
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大江村・連島村(倉敷市連島町連島など)の庄屋や年寄を勤めた大江三宅家に伝わった資料です。「文談明暮噺」は大江村・連島村の年寄を勤めた三宅恵左衛門明吉(1788~1861)が遺した日記で,地震による家屋の倒壊,地割れ,液状化現象,川の増水・逆流など被害の様子が細かに描写されています。またこの日記には同年の6月14日の夜に起こった大地震(伊賀上野地震)の記述もあり,家屋や蔵が壊れ、人々は野原に出たり船で川に乗り出したりして避難したことが分かります。他にも上方や江戸など各地の被害の様子の伝聞なども記されており大変貴重な資料です。【参考文献:『連島町史』連島町誌編纂会,1956年】 |
資料4
「新板地震万歳」
(倉敷市所蔵尾崎家文書17-28-29)
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万歳は正月に家々を廻って祝言を述べ歌舞を披露する門付け芸の一つですが,「新板地震万歳」は新年の祝いではなく嘉永7年11月5日の地震の様子が歌われています。歌謡のため解釈が難しい部分もありますが,人々が海鳴りや津波に怯え逃げ惑う様子,泣き叫ぶ子供・建物の倒壊・避難場所での様子などが記され災害の情景が目に浮かぶようです。末尾には「世直し」の言葉も見られます。「世直し」「万歳楽」という言葉は地震や雷などの災いを除ける呪(まじな)いの言葉で,安政2年の江戸地震後に大流行した「鯰絵」にも「万歳楽」「世直し」の言葉が記されているものがあります。鯰絵は「地震は地中の鯰が動いて起こす災害である」という俗信に基づく,大鯰と地震を主題とした錦絵で,地震除けのお守りでもありました。「新板地震万歳」も金毘羅大権現・瑜加大権現・妙見などの神仏に救いを求め,万歳・世直しの言葉を発することで地震から逃れようとする歌であったのかもしれません。
鯰絵については『1855 安政江戸地震報告書』(中央防災会議災害教訓の継承に関する専門調査会 2004年),『かわら版・鯰絵にみる江戸・明治の災害情報-石本コレクションから-』(2008年度東京大学附属図書館特別展展示資料目録)などを参照下さい。『安政江戸地震報告書』は内閣府Webサイト(https//www.cao.go.jp)から,『東京大学附属図書館展示資料目録』は東京大学附属図書館Webサイト(https//www.lib.u‐tokyo.ac.jp)からも閲覧できます。
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