甕の泊の情景を表すものとして、鎌倉時代に詠われた一句があります。
「運び積む 甕の泊 舟出して 漕げどつきせぬ 貢物かな」(※)
この古歌から道口・亀山・爪崎にかけての海岸線一帯は、甕の積み出し等に使われる天然の港として、たいへんにぎわっていたことが思い浮かばれます。
このように玉島は、かつて玉のように点在する島と、遠浅の海に囲まれた地域だったことが推測されます。
それでは、この瀬戸内海に点在する小さな島々が現在の玉島へと変化していくのは、一体いつの頃でしょうか。
それは寛永元年(1624)、松山城主の池田永幸が長尾内新田を干拓したのが始まりです。その後、本格的に干拓をしていくのは寛永9年(1642)に備中松山城藩主として入封した水谷勝隆です。この干拓は水谷勝隆、勝宗の2代に渡って行われ、長尾外新田の開発を手始めに、船穂・玉島・上成・爪崎の新田開発を次々と行っていきました。
こうして、玉島港は玉島新田、阿賀崎新田の開発が終わるころに現在の玉島に近い姿を現していくことになります。
次回は海がどのように干拓されたかを、水谷公の歴史とともに追っていくことにしましょう。
(※)古歌 藤原 家隆作 永承3年(1048)
|