元祖、玉島は海だった。

元祖、玉島は海だった。

今回は、玉島が干拓される前の状態を探っていくことにしましょう。
遠い昔、江戸時代初期(1600年頃)まで、今わたしたちが生活し、働いている玉島のほとんどは海でした。干拓が行われる前の玉島の状態は、瀬戸内海に点在する小さな島々だったのです。沿岸各地には「泊(とまり)」と呼ばれる小さなみなとがあり、瀬戸内海の沿岸航路でした。


今から約1300年前、奈良時代に詠まれた歌があります。

「ぬばたまの夜は明けぬらし玉の浦に漁(あさ)りする鶴(たづ)鳴き渡るなり」
(暗い夜が明けたようだ。玉の浦でえさをあさる鶴の鳴き声がひびきわたっている。)

これは万葉集の中の一句で、新羅に派遣される人がその旅の途中で詠んだ歌です。早朝の出発に、玉のような島々が連なる、おだやかな浅瀬の情景を見て歌ったのでしょうか。

下の地図を見てください。これを見ると、長尾・陶周辺は陸地で、乙島や柏島など現在の「島」がつく地名がかつて本当に島だったことが分かります。長尾・陶周辺は甕の生産地であったことからこの海域は『甕(もたい)の泊』と呼ばれていました。そして、乙島と柏島に挟まれた玉島港は「浅口」という地名が示すように遠浅の海だったのです。

 

干拓以前の玉島周辺

甕の泊の情景を表すものとして、鎌倉時代に詠われた一句があります。

「運び積む 甕の泊 舟出して 漕げどつきせぬ 貢物かな」(※)

この古歌から道口・亀山・爪崎にかけての海岸線一帯は、甕の積み出し等に使われる天然の港として、たいへんにぎわっていたことが思い浮かばれます。

このように玉島は、かつて玉のように点在する島と、遠浅の海に囲まれた地域だったことが推測されます。

それでは、この瀬戸内海に点在する小さな島々が現在の玉島へと変化していくのは、一体いつの頃でしょうか。

それは寛永元年(1624)、松山城主の池田永幸が長尾内新田を干拓したのが始まりです。その後、本格的に干拓をしていくのは寛永9年(1642)に備中松山城藩主として入封した水谷勝隆です。この干拓は水谷勝隆、勝宗の2代に渡って行われ、長尾外新田の開発を手始めに、船穂・玉島・上成・爪崎の新田開発を次々と行っていきました。

こうして、玉島港は玉島新田、阿賀崎新田の開発が終わるころに現在の玉島に近い姿を現していくことになります。

次回は海がどのように干拓されたかを、水谷公の歴史とともに追っていくことにしましょう。

(※)古歌 藤原 家隆作 永承3年(1048)

甕(もたい)・・・水や酒を入れる器

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