資料3 嘉永三年庚戌之記 敬簡斎

資料3 嘉永三年庚戌之記 敬簡斎

資料3 「嘉永三年庚戌之記 敬簡斎」(大橋紀寛家文書別1-19-G-2)

資料3 嘉永三年庚戌之記1

(表紙)

資料3 嘉永三年庚戌之記2

資料3 嘉永三年庚戌之記3

資料3 嘉永三年庚戌之記4

翻刻

朔日夕水出ニ付拙者出張,御代官様も御出張
二日水減[ ]日ニは水減最早懸役人不詰とも宜
御座候処,七ツ頃出張勇三□頻ニ大水之旨申越
薄暮川入迄罷越候所,十明堤へ及浸越申触
声ヲ承早々酒津一ノ口へ罷出候所,大水昨々年之
大水ヨリ一尺余も多く相見申候

 五ツ半
夕四ツ頃か拙者酒津□出張候所
安江村堤切レ込候由,御代官出張所へ
丈平安江村ゟ帰り来り届候故
拙者帰宅倉鋪会所にて
新田助ケ舟等ヲ下し申候,明[ ]
六ツ前当地へ水湛来り五ツ頃
には大分深ク相成[  ]
当方宅へは水一ツも来不申
候へ共,八間蔵ノ溝へは水登り
参候,奥座鋪庭へは水一尺
程上り申候,茶園は凡座ノ
下迄参り申候
本町へは水一ツも不上,高札場
ゟ以下ツカリ申候,井上町
此方茶園ノ門迄は舟にて
渡海いたし,夫ゟは水誠ニ
ワツカ上り申候,勝之丞方迄
夫ゟ西は水参り申候
東西御墓所水来り不申
一尺程下ニ有之位地高ニ御座候
右ニ付本町東町丈人家無難
あとは皆山へ逃出申候
御役所角ノ長屋座上ニノり
御本陣并御役所は地高ニ付
水庭迄ツキ申候,あと御部屋ハ
皆水ツキ申候,広田清吉様
御宅へは庭へ水入り申位少し
地高也,新川・舟倉はかもい
ゟ下タ弐尺程下迄水来り
申候,会所座一はい水参り
浜田屋へは水一尺も切レ居申候
井上町は一日座ノ上へ上り申候,
新宅も座限りニ[ ],川にし町も
同様ニ御座候
四日朝ゟ粥ヲ水沢にて
タキ出し,御手代衆ツキ添
新田其外山々へ被遣候計,
此方ゟはむすび所々へ遣し
申候,朝ゟ晩迄米ヲ
搗詰メ蒸詰メテモ引足り
不申候計

読み下し

朔日(さくじつ)夕水出に付拙者出張,御代官様も御出張,二日水減[ ]日には水減,最早掛り役人詰めずともよろしく御座候(ござそうろう)ところ,七ツ頃出張勇三□頻に大水之旨申し越し,薄暮川入までまかり越し候ところ,十明堤へ浸し越しに及ぶ申し触れ声を承り早々酒津一ノ口へまかり出候ところ,大水昨々年の大水より一尺余も多く相見え申候。
夕四ツ(五ツ半)頃か,拙者酒津□出張候ところ,安江村堤切れ込み候由,御代官出張所へ丈平安江村より帰り来り届け候故,拙者帰宅倉敷会所にて新田助け舟などを下し申候。[ ]六ツ前当地へ水湛え来り,五ツ頃には大分深く相成[  ]。
当方宅へは水一つも来り申さず候えども,八間蔵の溝へは水登り参り候。奥座敷庭へは水一尺程上り申し候。茶園はおよそ座の下まで参り申候。
本町へは水一つも上がらず,高札場より以下つかり申候。井上町この方茶園の門までは舟にて渡海いたし,それよりは水誠にわずか上り申候。勝之丞方まで,それより西は水参り申候。東西御墓所水来り申さず,一尺程下にこれある位地高に御座候。
右につき本町東町だけ人家難なく,あとは皆山へ逃げ出し申候。御役所角の長屋座上にのり,御本陣ならびに御役所は地高につき水庭までつき申候。あとの御部屋ハ皆水つき申候。広田清吉様御宅へは庭へ水入り申位少し地高なり。新川・舟倉はかもいより下,弐尺程下まで水来り申し候。会所座一はい水参り,浜田屋へは水一尺も切れ居り申し候。井上町は一日座の上へ上り申し候,新宅も座限りに[ ],川西町も同様に御座候。
四日朝より粥を水沢にて炊き出し,御手代衆つき添,新田その外山々へ遣わされ候計。此方よりはむすび所々へ遣し申し候。朝より晩まで米を搗き詰め蒸し詰めても引足り申さず候計。

意訳

朔日(1日)夕に水が出たので私は出張し,御代官様も出張なされた。2日水減り[ ]日には水減り,もはや係の役人が詰めなくともよくなったところ,七ツ(午後4時)頃出張していた勇三郎から頻に大水のことを言ってきたので,薄暮に川入まで行ったところ,(水が)十明堤を浸し越したとの申し触れ声を聞いたので早々に酒津一ノ口へ行ったところ,大水は昨々年の大水より1尺(約30センチメートル)余も多く見えた。
夕四ツ(午後10時)(五ツ半〔午後9時〕)頃か,私が酒津へ出張したところ,安江村堤が切れ込んだことを,御代官出張所へ丈平が安江村より帰ってきて届けたので,私は帰宅し倉敷会所で新田助け舟などを下した。明日(6月4日)六ツ(午前6時)前には当地へ水があふれ来て,五ツ(午前8時)頃には大分深くなった。
当方宅へは水は少しも来なかったが,八間蔵の溝へは水が登った。奥座敷の庭へは水が1尺ほど上った。茶園はおよそ座の下まで来た。
本町へは水は少しも上がらず,高札場より以下は浸水した。井上町のこの方(大橋家)茶園の門までは舟で渡海し,それよりは水がわずかに上がった。勝之丞方まで,それより西は水が来た。
東西御墓所には水は来なかった。1尺ほど下に(水が)あるくらい地高である。
そのようなことなので,本町と東町だけ人家は無事で,あとは皆山へ逃げ出した。御役所角の長屋は座上まで浸水し,御本陣(代官陣屋のうち代官の居所の置かれている部分)ならびに御役所(代官陣屋のうち役人が公務を行う部分)は地高なので庭まで浸水した。あとの御部屋は皆浸水した。広田清吉様御宅へは庭へ水が入ったくらい少し地高だった。新川・舟倉は鴨居より2尺(約60センチメートル)ほど下まで浸水した。会所の座には一杯浸水し,浜田屋へは水が1尺も切れていた(?)。井上町は1日座の上へ浸水した。新宅も座限りに[ ],川西町も同様であった。
4日朝から粥を水沢方で炊き出し,御手代衆がつき添,新田そのほか山々へ遣わされた。此方(大橋家)からは握飯を所々へ配った。朝から晩まで米を搗き詰め蒸し詰めても足りなかった。