寛政元年の水害

寛政元年の水害

寛政元年の水害


寛政元年(1789)6月18日,4日前から降り続いていた雨が激しくなり,西高梁川(当時は高梁川が倉敷市真備町川辺以南で東西二川に分流していた)の左右両岸の堤防が決壊する大きな水害が発生しました。西高梁川左岸では西原村(倉敷市西阿知町西原)の堤防が300間(約540m)にわたって破断し,そこから大水が川内(こうち)地域の連島丘陵以北の範囲(倉敷市酒津・水江・西阿知町・片島町・中島)へ流れ込みました。川内地域は東西高梁川の中洲のような地勢にあり,地域全体の灌漑用水を下流へ吐き出す水門が締め切られていた影響もあって水の逃げ場がなく,片島村をはじめ隣郷数か村が水没し民家などが流失して危機的な状況になりました。しかし,湛水の圧力で片島村の堤防が内側から決壊,そこから水がはけて人命被害はまぬがれました。一方,西高梁川右岸では同じ日の七つ頃(夕方16時半ごろ)船穂(ふなお)村(倉敷市船穂町船穂)の中新田付近(国道2号バイパス船穂ジャンクションの南方)で堤防が決壊し,河水の流入によって乙島(おとしま)・柏島と船穂・長尾・八島(やしま)の丘陵に囲まれた地域が湖水化しました。北川集落(倉敷市玉島八島の東部)の家々は軒の高さまで水没し,玉島湊の土手町・中島町(倉敷市玉島3丁目)にあった多数の商家・住宅が建物流失・崩壊の被害に遭っています。勇崎村北端の唐舟(とうせん。倉敷市玉島勇崎)には備中松山藩主水谷氏が新田開発のために造った古堤防があり,およそ1日湛水が南方へ漏れ出すのを抑えていましたが,翌19日この堤防も切れて玉島北部に充満していた河水が南方へ流下して水島灘まで到達し,勇崎浜の塩田が壊滅的被害を受けました。海の方へ水がはけたため,玉島北部では19日から20日朝にかけ1尺(30㎝)ほど水嵩が減り,発災から半月ほど経った6月末日ごろ地域を覆っていた水がはけたと言われています。後世の人々が「中新田切れ」などと呼び,明治26年水害の際は直近の過去に高梁川西岸地域で発生した水害の最たる事例として引き合いに出されており,その被害の甚大さが長く地域に記憶されました。
【参考文献:中塚一郎『勇崎村誌』私家版,1889年。宗沢節雄『郷土風土記』私家版,1986年。大田茂弥『玉島地方史 続1』忘牛庵,1991年。玉島郷土研究会『玉島変遷史』玉島市立図書館・玉島文化クラブ,1954年】
資料1 「井組拾壱箇村申合一札」 (倉敷市所蔵西阿知町役場文書78)NEW! 寛政元年6月の洪水発生後まもなく,川内地域の11か村(片島村・西之浦・矢柄村・大江連島村・西阿知新田村・中島村・岡山藩領西阿知村・新見藩領西阿知村・西原村・水江村・酒津村)が洪水発生時の対処などについて,以前よりの申し合わせ事項を文章化したものです。用水体系を同じくする11か村は組合を結成し,地域内の悪水排出に必要な「新井路」と呼ばれる用水路(現・水門川)の建設・維持費などを共同負担していました。しかし,洪水時の排水を新井路から放出することが困難なため,地域が水没して人命の被害が生じる規模の大洪水が起きた際は,片島村の下手の堤防を人為的に切り払い,そこから西高梁川へ湛水を吐き出すこと,人為的に切った堤防は領主から経費をもらい11か村組合が助け合って修復(助合御普請)することを定めていました。寛政元年の洪水時,西原村の堤防決壊により川内地域は水没し民家などの流失・人命被害が生じる状況になりましたが,申し合わせに従って堤防を切る直前に片島村の堤防が自然崩壊し,そこから水が排出されて地域の住民や家畜の命が助かりました。堤防が自然に切れたおかげで地域全体が助かったことから,片島村の堤防は領主に経費支出を請願のうえ組合の助け合いで修復することになりましたが,本来助け合いは堤防の人為的切断時のみに限り今回のことを先例とはしないこと,自然崩壊した西原村の堤防には助け合いを適用せず同村が単独で領主から経費をもらって修復することなどを定め,今後認識がまちまちになって混乱や争いが起こらないよう明文化して組合に属する村々に渡しました。この史料は西阿知村に渡され現在に伝わったものです。